EPISODE

Episode 03 緑の追想 (10)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


私が日本敗戦のしらせを受けたのは、ビルマとタイとの国境線にあたるチーク林の山中である。ここから象の背を借りてタイの平原へ降り、徒歩でバンダーラとよぶ河岸の村につき、帰国の日を忍耐づよく待ったのである。捕虜の身には最初に大きな愁いがあり、やがて日本の青年としての決意に至る。生を得て母国へかえりついたら、母国の文化の回復に余生を投じよう。未熟とはいえ戦争という苛酷なときをくぐってきた批評精神を胸にすえて、心ある友人たちとふるさとの文化運動をはじめよう。そのとき早くも私の瞼には、戦時中西日本新聞で活躍した岸田勉君の顔があった。

昭和21年5月、久留米に復員して早速いまの住所に診療所をひらき、岸田君と連絡のとれる機会を待った。内野秀美さんはまだシベリヤから復員していなかったし、二宮冬鳥さんの歌人としての成熟を私は知らなかった。

つまり、戦後の精神をもって文化活動をおこす良き仲間として、岸田君ただ一つが頭の中にあった。恩師の山村秀一先生のお世話で、岸田君と顔を合せたのは、岸田君のメモによればその年の11月1日。文化運動についてのふたりの構想にへだたりはなかった。

岸田君は山村秀一先生、三原草雨さん等に連絡をとり、私は小野正男さん、菊竹豊平君、それから母校を介して知った二宮冬鳥さん、竹村覚さん等を誘って、話はたちまち進展し、早くも11月9日には発起人会をひらいている。

出席したのは、元市長であり俳人である後藤多喜蔵さん、鳥類文献の蒐集家であった医師平野四郎さん、水彩画家の山村秀一先生、九州医専の助教授で歌人の二宮冬鳥さん、金文堂書店社長の菊竹豊平君、画家の岸田勉君、俳人の三原草雨さん、それに私を加えて八名。欠席者として俳人の田中政彦先生、工芸の豊田勝秋さん、音楽の薮文人さんを記録している。

発起人会においては、完全に民主的運営をくわだて、行政機関からの金銭の助けをうけず会員自身の奉仕によってのみ経営、会規も複雑をさけて簡単な約定数条をかかげたのみ。

したがって会長を設けず、運営委員2名で会務をとり、岸田君と私がその任にあたったが、後になって平野四郎さんを委員長にした。

会名については、「久留米文化会」という案が出たが、「の」の字を挿さみ、「久留米文化の会」という軟性の名に決定した。石橋徳次郎さん、倉田泰蔵さん、中原隆三郎さん、菊竹大蔵さんを顧問にえらんだが、これは形だけのものであった。事務所はしばらくは市庁舎前の記者クラブにおいたが、実際上は私の家で仕事をつづけた。

これが「久留米連合文化会」の前身であり、活動は日を追うて多彩になった。

昭和21年より昭和24年10月「仮称久留米文化連合」発会式までの行事については、連文の事務局にかなり詳細な記録がのこっているので、「久留米文化」(文化の会会報)第1号巻頭に私がしたためた舌足らずの小文をここに写して、当時を追憶するよすがとしよう。

郷土の文化のために (招待の記)
戦後の最も安価な意味の文化流行もようやく下火になり、しかも人々は忍耐と奉仕とを要する文化運動への興味をうしない、目前の利害のため奔走してやまぬ今日、文化団体の運営はきわめて困難であるが、今こそ地に根を下した質実な文化運動を遂行すべきときであると考える。久留米文化の会も発会以来すでに1年と3月をけみして、いくたの非難を浴びながら、前進とともに内省を、発展とともに脱皮をつづけている。

それは趣味的な集団にすぎぬというもの、政治性の不足を指てきするもの、青年性の欠如をいうもの、またプロレタリアートの同伴者としての進歩性を有しないという非難、あまりに芸術分野へ偏向しているという非難、さらに甚しいのは、一部芸術家たちの売名のグループにすぎぬという論難もある。 こうした難じ方のひとつひとつを会は決して馬耳東風には聞きながさなかった。文化の会の性格と構成についてたえざる省察をかさねつつ、歩一歩と改良改善を努力してきた。しかもまだまだ無力であり無為である。会が今もっともおそれているのは、当地方の文化人としての触覚、意志、熱情を有する人々にたいして、洩れなくしかも充分に礼をつくして、入会の招 待を行ったであろうかということである。

これはたしかに会の怠 慢であるが、同時に未入会のそうした人々自体の怠惰ともいえるのである。郷土の文化的啓発運動は興味としてではなく責務とし て、文化意識にみちたすべての人々によって遂行されねばならぬ はずである。世代・職業・流派などの差別なく、多数の有志がす すんで入会されて、文化の会の中核からこれをゆさぶるような強烈な実践をしめしてほしいと願っている。文化の会の発展は枝葉事にすぎぬ。要は久留米の文化的上昇であり、良識の結集による封建性と非文化への戦斗である。

当時の文化的奉仕に力をつくしてくれた方々の名前をおもい出すままここに誌しておく。

金文堂の支配人川崎甲平さん、俳人の草野駝王さん、美術と音楽の荒巻敏康君、久留米大学教授の上田彰さん、俳人の古野子楓さん、美術の古川潤二さん、音楽の木下理助さん、医師の井上伝さん、書家の山田菱花さん、詩人の俣野衛君、音楽の高橋暁夫さん、俳句の長井盛利さん、など。ことに俣野君には会務処理上負うところが多かった。内に強烈な批評をもち、つねに自主的で青年性をもつという「文化の会」の性格を、連文の栄光ある歴史がうけついでゆくのである。

[on Magazine "RENBUN" vol.16, March 1980 ]




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