EPISODE

Episode 03 緑の追想 (7)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


前回で私は、リベルテ会報「仕事部屋」のうち、いま手元にあるのは第2号だけと書いたが、その後、若松の婦人科の医師村岡正高君が第1、第3、第5号を保存していることを知った。さっそく拝借して、私の記憶のうすれを補うことにした。

昭和10年10月20日が第一輯の刊行日になっている。編集者名は九州医専の私の同級生であった台湾生れの黄海東君。村岡正高君も黄啓東君も、のちに「文学会議」の同人である。発行所は久留米市西町神浦の私の自宅となっている。編集後記を私と黄君が書いた。私はそこで、

…発会以後僅か半年をへた今日…中略…「ゆっくり急げ」の諺通り、絨口と暴力、瀑潤と低迷のこのときを小さな石へ小さな石を積んでゆきたいと思うが│後略│としたためている。野田宇太郎さん、黄啓東君、江口洋君(医学生)、熊川荒尾君(演劇)、の小随筆、私の幼稚な断片、土岐峻茂君(医学生)、辻重行君(医学生)の詩などを掲載し、劇団第三舞台の広告をのせているが、これは演出池上健一さん(古賀ユキさんの御主人)、熊川君の構成ということで団員を募集している。また詩誌「魚の輩」の広告をしている。これは実際には「青い髯」と改題して発刊したはずである。野田宇太郎さんの随筆は、みじかいものながらかれの出発を記念する興味ぶかい文章である。タイトルは「醜聞帖」。

此の世で私には三つの事だけがゆるされている。詩を書く事と、恋愛する事と死ぬ事だ。その間隔の中に、技芸や、体育や、政治や、無意識や、経済が、ごたごたと詰まってゐる。詩は文学したからとて直に書けるものではない。それは丁度花を持つ草や木が、芽生えたからとて直に花を着けないのに似てゐる。けれども文学すると言ふことも単に文学するだけでは成立たない。文学は人生観的な理論の結果である。先ず人は何よりも先に自分の存在に疑問を感ずるであろうから。恋愛は誰でもする。だからむづかしい。これは肉体がもつ唯一の神聖な美しい祭である。たとえば必ず孤独である私の中に一人の女が、やさしい身振りで静かに住むようになる。而も誰も知らない。死もまた、たのしい存在である。29のはかない生涯を終ったノヴァリスがなした仕事は死に就いて、より正確に考えるたった一事であった。死の鳥に人生がはっきりして来る。死に就て考えずに人生を語るなどは笑止なことである。

今こうやって、詩、恋愛、死と竝べてみるとあたかもロマンチシズムのようだ。ところが、私の考えてゐることは寧ろクラシックな事である。何故かなら、この三つを語る他に私には人生を真面目に語ることは到底出来相にないからだ。

第2輯は11月30日の刊行である。ここでも私と黄君が後記を書いている。巻頭には井上癸造君(ビルマで戦死した井上光臣君の筆名)の「落生記断章」、吉塚清君(医学生)の「弱者」という随筆、野田宇太郎さんの「覚書」と題する艶っぽい随筆、緑川稔君(医学生)の「映画雰囲気論」池上健一さんと熊川荒尾君の演劇についての覚書、土岐峻茂君の小品「恋愛方程式」田中稲城さん(のちの「文学会議」の同人)の小説「淵」、迫仁さんや辻君の死などがおもな内容である。

発会からこの11月にいたる約8ヶ月の文化的諸行事については、会報に記事がないし、私もほとんど失念しているが、ただ、会の最初の催しとして、内野さんの茶房で、坂宗一さんがえがいた新聞小説挿絵展をひらいて好評だったことを記憶している。

[on Magazine "RENBUN" vol.11, July 1978]




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