EPISODE
Episode 01 連文への道
文化の会を経て 岸田 勉 [Publicity; 50th Anniversary Magazine 2000]
終戦の翌年、まだ久留米も戦火から立ち上りかけたばかりの時であり、人々の心にも先のわからない不安な希望と、失われたかずかずのものへの苦痛というふくざつな感情が重なり合っていた折である。気ぜわに走り廻っているが、中味には乏しく、精いっぱい自分の地盤を経済と処世の中にうちたてようとあせっている人間のあさましさばかりが目立っていた昭和21年、旧友の丸山豊氏がビルマから帰っていることを聞いた。
その前後、ぼくはこういう世相の折こそ、知的な面から、あるいは情操の面から、広く文化という、いっこう金もうけにはならないが、然し人間の心になにかあたたかいゆとりをもたせるに必要な、そして、それが物に乏しくとも、心に豊かなものであってくれるような、そういう姿をおしすすめることが最も必要ではないかと強く考えていた。これは一人ではできない。幸い、当時、西日本新聞社の久留米支局長で、俳人でもある三原草雨氏が話にのってくれた。力強い後援者であると思った。それに画家の山村秀一氏が先輩として相談はもちろん、かずかずの助言を与えてくれた。
その年、11月1日の夜、丸山氏を自宅によんだ山村氏は、ここでぼくとひき合わせをしてくれたのである。ぼくの文化団体を作るという構想は、事実この夜にまとまったといってもいいと思う。つづいて11月9日、午後2時に発起人会を、旭屋食堂別室で開いた。そして集まった人たちは、後藤多喜蔵氏(元久留米市長、俳人)、平野四郎氏(医師、鳥類研究家)、山村秀一氏(明善校図画教諭)、二宮冬鳥(九州医専助教授、歌人)、丸山豊(医師、詩人)、菊竹豊平(金文堂)、三原草雨(西日本新聞支局長、俳人)それとぼくの八名であった。欠席には、田中政彦氏、豊田勝秋氏、薮文人氏などだった。「文化の会」という名称はこの会で決定したように記憶している。「の」をいれることによって、お役所的な、かたぐるしさを避けて、柔らかい語感を出そうとしたように思う。これは丸山氏の提言であったようだ。このようにして「文化の会」は、委員会をもち、会員を拡張し、その事業と運営とを次々に実行していった。この年の終わりまでに会員は五十名に及び、別に会長を設けず、運営委員で会を推進することを定め(翌年には委員長に平野四郎氏を推したが)、また顧問として、石橋徳次郎氏、倉田泰蔵氏、中原隆三郎氏、菊竹大蔵氏の四名がえらばれた。
昭和22年は、そんなことで、活発な動きをすることができた。ことにこの年は、平野氏が委員長としてずいぶんな世話をしたものである。委員はしばしば同氏の家に集まっては事業の企画をたて、その配慮をわずらわしている。久留米医大関係の諸教授が会員になり、また金文堂の川崎支配人や、同じく出版部長の室園草生氏などのバックからの温かい支援もあり、「月例文化講座」が開講されたのもこの年から、翌年にかけてのことであった。会員の著書出版、新聞執筆など相次ぐ有様だったが、月例文化講座と共にこの方面でよく活動したのは、二宮、丸山両氏やぼくなどであったし、荒巻敏康氏など絵画と音楽鑑賞の面でいいアイディアを提供してくれた。
そして昭和23年ともなると、俣野衛氏が積極的にこの会に参加することになった。「文化の会」も、会独自の事業というより、他の団体との共催、後援という形もとられて、その企画はますます幅を広くしていったが、それらの連絡、事務の殆ど一切を俣野氏がやってくれた。それは前年にもまして華やかな行事の連続であり、現在の「連文」以前において、この年程、熱意のある「文化の会」の動きをみせたことはあるまい。俣野氏の功績はこの点で大いに見のがすことはできないと思う。わずかに会員の会費の徴集以外に、定期的な会の収入もなく、公的な組織ももたないこの会の、いわば限界の活動ではなかったであろうか。この年の常任委員は、丸山、俣野両氏とぼくの三名であった。
だが、その限界は、つい反動となってあらわれた。翌、昭和23年になると、常任委員の生活にも異同を生じた。ぼくは春に羽犬塚に居住を移し、ようやく12月に再び久留米に帰ってきた。そのあいだ「文化の会」に関係することはできなかった。が殆ど会の行事は、この年の前半から停止の状態であった。この会が在野のままあることは、始めからの望みであった。然し会の性格がふくれあがるに従って、その運営費や諸雑費が、単に会員の会費のみで収支つぐなわれることはもはや不可能であった。こうして「文化の会」は、まず図書館との接近をはかったが、これに対して図書館の社会活動について、かねてその腹案をもっていた館長田口経次氏の積極的な協力が芽をだし始めたのである。公共機関との共同は、同時に会の性格を公共的のものに代えざるを得なかった。新しい発展をみるために昭和二十四年九月に、「文化の会」の委員が最後に集まった。それは図書館においてであったが、ここで「文化の会」の解散が決議され、そして発展的に、「仮称久留米文化連合会」という形をもって新生することになった。ぼくは、初代久留米文化連合会々長、倉田雲平氏の下で、丸山氏と共に副会長として居残ることになり、俣野氏もまた事務担当でこの会に関係したのであったが、もはやぼくらの任務はここで終ったという感を深くしたものである。
いま、名実共に立派な文化団体として、久留米「連文」の名は輝かしいものである。これはひとえに田口経次氏のおかげだが、恐らく将来も「連文」はこのままゆるぎのない歩みをつづけていくであろう。なぜなら、いまもすぐれた会長や委員達のたゆまない力があるからだ。だが考えてみると、あの困難な世相の中で、なんの得にもならない文化行事を、裸いっかんでやり通していったあの情熱は失いたくない。一般の人が、自分の保身に一生懸命であったあの時、時間と労力と金銭とを犠牲にして働いた多くの文化人達、それに協力してくれた周囲の人々、その人達のある者はいまはなく、ある者は静かに「連文」のすすみをみ守っている。そこで固められた地盤を、そのままうけつぎ、市という公共機関の保護の下で、すでに十年の歳月を経ていよいよ精彩を加えている「連文」が、そのままなしくずしに終らないよう市民はこれを大きく育てていかなければならないと思っている。
PROFILE | 岸田 勉 Kishida Tsutomu [1915-1982]
大正4年(1915)、篠山町に生まれ、九州大学卒業後、西日本新聞社を経て佐賀大学、九州芸術工科大学等の教授を歴任。
昭和20年(1945)、発起人となって、坂本繁二郎を委員長に西部美術協会を結成、続いて美術雑誌『西部美術』を創刊、さらに、久留米連合文化会の前身となる「久留米文化の会」を結成するなど、戦後の文化の復興に情熱を燃やした。
岸田はまた、現代九州彫刻展、西日本美術展など、九州地区の主要な美術展の審査活動を行うとともに、美術評論活動を行い、新進画家の発掘に貢献した。
近代洋画の研究者としても著名で、著書には、『美術概論』、『美術史概論』、『近代の美術・坂本繁二郎』などがある。
福岡・佐賀両県の文化財保護審議会委員、久留米市文化財専門委員長、久留米絣技術保存会理事、久留米市史編纂委員長などをつとめ、昭和53年(1978)、石橋美術館長に就任。昭和51年(1976)には「久留米市文化章」を受章した。