EPISODE

Episode 03 緑の追想 (5)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


さて、私の身辺で起伏した久留米の文学運動について、ありのままを記録しておきたい。井口外科の息子の宏君たちと『子供の科学研究会』を結成したりして、かならずしも文学好みではなかった日吉小学校時代の私が、教師や父のすすめもないのに童謡を書いたり詩をつくったりしたのは、当時の雑誌『日本少年』の投稿欄の刺戟もさることながら、久留米における川原みくささんの熱心な児童詩運動の影響がつよい。みくささんは私費をなげうって、久留米全域の児童の童謡や詩を採録した冊子を発行しておられた。

明善校に入学してからは、いくたびか田中彦影先生宅の句会に出席してみた。そのころ静雲の『木犀』に投句してから、当然ホトトギス派の句会に顔をだすようになったわけである。もちろん参加者の最年少として、俳人の皆さんにかわいがられたが、彦影先生からは、「どうも早熟すぎて」というふうに見られたらしい。「俳句に凝りすぎると医者になれないぞ(家の職業が医師だったから)」と笑顔ながらではあるが叱られたのを忘れもしない。一年上級の石田光明さんからすすめられるまま、天の川句会にも一回だけ出席している。櫛原町だったことだけは覚えているがどなたのお邸だったかまるで記憶にない。光明君の「春の蚊の硯の上に玲瓏と」といった優婉な作に感服していたころである。

詩の話に移ろう。私が文学と無縁のとき、すでに久留米には、のちに九大の国文学の教授をされ、私もおつき合いをすることができた福田良輔さんらによって文学同人雑誌が刊行されたこと、また私が中学に入ったばかりのころ、牛島春子さんの令兄らによって文芸誌が出されたことなどは、後日知りえたわけで、私がじかに接した最初の同人雑誌は『街路樹』である。明善校を四年に進級したばかりの私を親友の井上光臣君が『街路樹』を企画している有志たちに紹介してくれた。私はこつこつ詩を書いていたし、井上君はすでに渋味のある小説を作っていた。詩稿をふところに、光臣君に案内されて日吉町電車通りの青木酒店に青木勇さんを訪問した私は、その蔵書のゆたかさに圧倒され、同時に同人としてテストをうけたのである。

『街路樹』は昭和5年6月1日に創刊された。そのバックナンバーはありがたいことに鶴久二郎さんの努力によって保存されており私もそれを拝借して記憶をたどることができるわけだ。発行所は三本松町街路樹社、発行者は江藤九州人となっている。30頁。1部10銭。創刊のおりの同人は15名で、阿緒樹とあるのは青木勇さん、江藤翠峰というのは九州人さん、晴山純とペンネームをつけているのは私である。私の場合まだ中学生なので学校に遠慮して名を秘したが、第3冊目あたりから本名を使用している。『街路樹』の詩の方の中心人物となったのは青木勇さんであり、短歌では江藤さん、また詩の顧問格に鹿児島出身在東京の江口隼人さん、短歌の方は江口忠太さんを特別指導者の位置にすえていた。

この雑誌の創刊が、当地方の文学興隆期のいと口にのぞんでいたものと見え、たちまち人数は増加し、久留米における最初の文芸大集団を形成したのである。しかも東京・大分・浮羽・神埼・瀬高などに九つの支社をおくことができた。青木酒店と、三本松の丸万マーケットの中央にあった江藤商店には、毎日毎夜文学書生があつまった。青木さんは30才位だったと思うが、全同人のなかの最年長、当時からなかなかの奇人で昼の入浴数時間、その間浴槽にもたれてたっぷり午睡をとるのだった。

読書量のおびただしさと、飛躍の多いどもりながらの独特の語り口によって、私たちの敬愛の的になっていた。江藤さんの店は衣服や洋傘などの商品がいっぱいつまって、座る場所もないので、店の横の階段を下駄をならしてかけ上って、ひろい丸万食堂にたむろするのである。風態あやしき青年たちが食堂が閉まるまでにぎやかな議論を交わし、その後は深夜の路地のドブ板をふみながら、文学の熱気に酔うのだった。『街路樹』の作品としては井上改造の短歌、鹿迪介、大石千芝・井上光臣・安西英雄の小説、阿道夫・久富虎緒・永井正春の詩などが胸に刻まれている。野田宇太郎さんの詩の登場も特記すべき事項のひとつである。

[on Magazine "RENBUN" vol.9, November 1977]




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