EPISODE

Episode 03 緑の追想 (3)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


若いときの私は、久留米の文化状況を問われたときに、不毛地帯と答えるのがくせであった。それは、青年らしい文化への乾きと焦慮を示すとはいえ、ふるさとのすぐれた先人たちの、文化についての並々ならぬ営為について、まったく礼を欠いた言葉であった。

私たちの今の仕事、さらにこれからの仕事が、すべて、先人の煉瓦づみを引きついだものであることは申すまでもない。久留米の文化史としての、音楽のこと、絵画のこと、また文学のことなど、私より年長のひとのペンで、ことに郷土史に専心される記述者によって、もっとたしかな記憶と資料をもとに、くわしい整理が行なわれるだろうが、私は私のおぼろげな追憶だけをたよりに、小走りにたどってゆこう。

昨年の秋、九州沖縄文学賞の選考で久しぶり牛島春子さんと会ったおり、話は久留米のむかし話になった。そして、久留米高女の音楽教師であった毛屋平吉さんの名前がでて、毛屋さんや、筑後新聞にいた萩尾さんや、のちにランタイシッキ工芸家としての後半生をえらんだ古川潤二さんたちによって経営された共鳴音楽会が、久留米の音楽普及に果した役割を語りあった。

あの頃は散歩の道すがら、レコード店の前に共鳴会の公会堂における演奏会の立看板を見て、ひそかに胸をおどらせたものだ。公会堂といえば、藤原義江や関屋敏子らの独唱会もいくたびか催された。その魅力的な歌唱が、いまもありありと心に刻まれている。テレビもラジオもないときに、一流の芸術に接したときめきは、今日十代の若者が歌手たちをめまぐるしく送迎する熱狂とは、まるきり異質のもののように思えるのだが。あの種の音楽会を主催し、厄介な事務をとりしきって、ふるさとの音楽を啓発してくれたのは、どなたたちであったろうか。あれも共鳴会の主催だったろうか。

久留米のドンタクは招魂祭であった。もともと、諸戦役の戦死者たちの霊をなぐさめることを主にしたもので、あわせて軍と民間との融和をねらうというものであったろうが、そうした主旨はさておいて、久留米の町がわきかえる楽しい祝祭であった。この機会には年少の私たちも、町々のにわかづくりの舞台で、粋筋のすぐれた邦舞を見ることができた。もちろん、このドンタクには、新旧巧拙をとわずさまざまの大衆芸がめじろ押しの有様で、ときにはおどろくほど前衛的なものもあった。たとえば、新聞くばりの荒川君など、ルパシカをまねた衣装をつけて、ツルーゲネフの詩を朗読したり、今日の暗黒派風な舞踊をいち早く披露したりした。

邦舞はまた、小頭町の恵比寿座の年一回の温習会で堪能することができた。幼年時の藤間天津雄さんの才分ゆたかな舞踊にほとほと感心したのも、この恵比寿座ではなかったろうか。たしか子猿に扮しての熱演だったと思うのだが。この劇場では石井漠、寒水多久茂たち、公会堂では石井小浪の洋舞の公演も印象ぶかいし、映画クラブという映画館の幕間狂言のかたちで、素足に日和下駄をはいて踊った岡田嘉子の踵のしろさが記憶にあざやかである。その直後に彼女は、国境を越えてソ連へ逃げた。

[on Magazine "RENBUN" vol.7, March 1977]




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