EPISODE
Episode 04
連文の過去・現在、そして未来
50周年記念誌上座談会
■ date : August 11 1999 at : SOSEI, kurume
「久留米文学」の発行 |
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柿原 | 昭和二十四年に第一回の文化祭があり、高浜年尾氏を迎えて歓迎俳句会が開催されています。それから、昭和二十九年に、雑誌「連文」が創刊されています。 |
古賀 |
![]() 小説には宮崎澄子氏など私どもの知らない方が名を並べています。丸山豊氏をはじめ詩を書いた人が多い。また雪の結晶で有名な北海道大学の中谷宇吉郎氏の講演会が連合文化会主催で行われています。 |
内山 | 雑誌「連文」の編集は三木一雄氏が杉本寿恵男氏としていました。 |
古賀 | 三木氏は文選工として働いていた人なので集った作品を杉本氏が選考し、三木氏が編集に協力されていたものと思います。「連文」初期の小説には三木一雄氏、杉本寿恵男氏の作品が非常に多かった。 |
柿原 | 現在、篠山城跡に三木氏の文学碑があります。 |
内山 | 三木一雄氏は文学の功労者です。 |
古賀 | 三木氏は難病に苦労された晩年であったので、それを仲間が慰めるために文学碑が建てられました。杉本、三木両氏の手で創刊された「連文」は五号まで発行されましたが、昭和三十三年に誌名を「久留米文学」とかえて現在に継続されています。今年の連文五十周年記念号は第四十七号です。編集は連文文芸部門の小説・詩・短歌・俳句・川柳の責任者が行ってます。
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華道 茶道について |
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船嶋 |
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柿原 | 全体的にみると連合文化会の活動は文芸・美術が中心でそれ以外はあまり活発ではなかったと思ってよいでしょうか。 |
内山 | 茶道・裏千家の方々は一生懸命やっておられたが、連合文化会に予算的な要求はされず、自分たちの力で活動しておられた。 |
半田 | 私のころは、合同華道展は元の偕行社、今の中央公民館で、茶道の茶会は少林寺で行なわれていました。 |
内山 | そこでは謡曲もやっていました。清水暎凰氏が背景の松の絵を描かれたのは、昭和三十七年頃、井上市長の時でした。 |
半田 | 昭和三十九年、市教育委員会の社会教育課にはじめて文化係ができ、私が初代の担当者となったとき、内山敏郎氏より今までの公民館の実績を申し受けた。その時点では、連合文化会の総合美術展とかすべて基礎が出来あがっていた。
そこで私は、今までの内山敏郎氏のようにはできない、といいました。これは悪口ではないが、それまでの連合文化会に対する功績は大きく「連文の内山か、内山の連文か」と言われていたほどであった。それを引き継ぐ時に、私は行政は援助・奨励の立場であって、今までのように細やかなお世話はやれない、と言ったのです。それが、山下連文会長に伝わり「行政は思い上がっている。半田君を見損なっていた。」と言われたことがあります。 その時、連合文化会では基本的活動と行事はできあがっていました。新しく創ったものとしては昭和四十年の久留米短歌大会があります。赤星端氏と話し合って実現しました。会場は久留米市中央公民館でした。 |
演劇について |
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大石 | 私はあとで連合文化会の事務局長としての関わりもありますが、昭和二十六年から二十九年までは演劇部のメンバーとして関係がありました。昭和二十六年に公民館の舞台で「俳諧師」や「修禅寺物語」などを蓮原昭氏、九州医専(現久留米大学)の松下博良氏、布施玄氏などが出演されていました。その時、作品展示の裏方を内山敏郎氏が一生懸命されていたことを覚えています。舞台では演劇、展示では洋画、書道がされていました。私の初舞台は昭和二十七年、俊寛の役で舞台に立ちました。 |
柿原 | それは連合文化会の事務局長時代ではないのですね。 |
大石 |
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内山 | 演劇はあの当時、本荘正路氏の熱意ですね。 |
大石 | 本荘正路氏は久留米のお寺のにわか坊主として帰って来ましたと仰言っていたが、東京でも相当に演劇活動をなさっていたし、義太夫も下村海南氏から一目置かれるほどのものでありました。連合文化会から演劇を任せられたことで意欲的に指導されていました。本荘氏がおられたために、連合文化会の演劇活動は大きな実績を残したと思っています。 |
浦園 | 今までの話を総合すると、久留米連合文化会の出発は文学と演劇あたりであったと思います。絵は来目会があったが、来目会は連合文化会ではなかった。絵が連合文化会としてはっきり形づくられるのは、昭和二十七年の総合美術展を開いてからひろまることになります。それで文学や演劇が現在の久留米連合文化会の形づくる原点となっていたと見てよいでしょう。 |
内山 | 青木繁の「けしけし祭」と芭蕉ゆかりの桃青霊忌の俳句大会。これは当時、久留米市に観光課があった。保坂課長の時代に何か久留米にふさわしい行事として昭和二十八年に考えられたものです。 |
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*Illustration ; AOKI SHIGERU Author : Sakamoto Toyonobu |