EPISODE
Episode 04
連文の過去・現在、そして未来
50周年記念誌上座談会
■ date : August 11 1999 at : SOSEI, kurume
「文化都市久留米」と公民館 |
|
内山 |
![]() 昭和二十四年に「久留米連合文化会」が発足し、何かしなくてはならないということで、図書館を利用して美術展をした。それ以後しばらく活動がなかった。ところが昭和二十六年に社会教育法によって公民館が出来た。その時、私が最初の職員として公民館に移った。田中経次氏が公民館の主事となって来て、何かしなくてはならぬということになった。当時、社会教育の係長が公民館の予算を作っていた。その中に、助成費があった。久留米市が文化都市を標榜するならば何かしなくてはならぬ。その時、青年団と婦人会と文化団体の三つの団体に助成金を出そうということになった。何か事業をやるなら予算を出しましょうと言って、昭和二十四年の秋に連合文化会がやったのが美術展であった。 その時の係の職員として助成金は出しますが、あなたたちもお金を出さなくてはなりませんと言った。その時、丸山豊氏が三百円か五百円かを会費として出そうと言い、その会費と公民館の予算八万円とで第一回の総合美術展ができた。 |
柿原 | この年譜では昭和二十七年 秋、第一回文化祭の美術展として記録されています。 |
内山 | 私が公民館の係として十五年間お世話したあと、半田豊氏の社会教育課の方へお返ししました。 |
半田 | 昭和三十九年です。 |
内山 | 最初の時、連文の会長は倉田雲平氏、副会長が丸山豊氏でした。 |
半田 |
![]() |
内山 | 文化団体に助成金を出すことなど、予算については自分がやっていましたが、連文の仕事が全部私のところに回って来た。連文の会長、副会長のもとに会計、書記がおられましたが、連文の行事の企画は予算の配分も含めて、ほとんど会計・書記と私でやっていました。そして会長の倉田雲平氏の会社まで出かけて報告していました。
その当時、連合文化会以外の「示現会」とか「二科会」、「創元会」に属する人たちから自分たちにも不足の金を出して欲しいということで、パネルのお金を出したりしました。 |

久留米市民へのアピール |
|
内山 | 今でも記憶に残っていることの一つに昭和二十七年、久留米市民にもっと文化をアピールしようということでパレードをしようということになって、ミス文化を四人集めてオープンカーに乗せ、市役所から明治通りまでパレードしました。それが文化に対する盛り上がりを高めたと思います。 |
柿原 | 清水副会長なにかありますか。 |
清水 | たしか、内野秀美前会長の発案で、その時はあずき色のルパシカを全部に作ったのです。一人一人の体に合せて作りました。そういう、おしゃれな衣装を着てパレードをしました。大変派手でした。 |
柿原 | 市民にアピールするためですね。 |
清水 | もちろん、そうです。 |
浦園 | 今、連文が使っているマークはその時使ったマークです。黄色のラシャ布を切り取って作りました。連文の若い者たちはトラックに乗って回り、商工会議所の前で踊ったりした。その時の振りつけや指導等は藤田貞雄氏でした。 |
内山 | 示現会などが久留米で展覧会を開くと九州全域から応募作品の絵が集まって来ました。 |
浦園 | その来目会を三十八回で打ち切り、昭和三十七年の十一月に第一回総合美術展をしました。それで、各地の人が集まってくるようになってきました。来目会も出品者が少なくなって来たから各部、美術関係が一緒になって総合美術展を開きました。山下市長時代、連文に対する助成が二十万円でした。それで額縁を五十ぐらいつくったこともあります。 |
内山 | その時、公民館で催ものをやったことによって、音楽も謡曲も華道も全部が集まって来るようになった。音楽は薮文人氏、謡曲は山口巌清氏、日本舞踊は藤間天津雄氏、こういう人々が集まって来て、久留米連合文化会をつくりあげました。 |
1 2 3 4 5 6 | |
*Illustration ; AOKI SHIGERU Author : Sakamoto Toyonobu |