EPISODE

Episode 04
 連文の過去・現在、そして未来

  50周年記念誌上座談会

■ date : August 11 1999 at : SOSEI, kurume


TALK ABOUT, Member
会長浦園  繁 司会柿原  聡
副会長 船嶋 一甫   
古賀 ユキ
清水 暎凰   
花柳 光君
記録 大津留 敬   
津留 誠一
堤 日出緒   
国分 大幸
会員 荒巻 敏康   
内山 敏郎
企画 納戸 健次   
内野 博夫
元事務局長 半田  豊   
八重津 健
大石  繁
事務局 鹿毛 正男   
稲毛 敬子


集合写真 高良山で小鳥の声を聞く会 左より俣野衛、平野四郎、山村秀一、岸田勉(昭和22年)

 
はじめに
浦園 今日、八月十一日は半世紀余り前、久留米市がアメリカ軍の空襲にあい、中心地が廃墟と化した記念日です。特別に今日を選んだわけではありませんが、皆さんのご都合の結果、今日この座談会を持つことになりました。

今日も久留米では、「美術久留米」という題目を掲げて色々な行事をしています。このようにわれわれは戦争ではなく、平和の中に文化を構築していこうとしています。その意図と経過を踏まえながら、創立以来五十周年を迎え、久留米連合文化会の活動をこの座談会で話していこうとするわけです。幸い、今日は副会長の皆さんをはじめ創立当時からの古い会員の方々、かつて事務局長をされた皆さんにも出席していただいてお話を伺うことになりました。どうかざっくばらんに話していただきたいと思います。
柿原 この五十周年の記念誌には年譜にもとづき、厳密に年代を追って時代をたどるところもあるので、ここでは少々時代が前後してもよいので、自由に発言していただきたい。まず、歴史的なこと、次に現在の問題点、最後に未来に向けての久留米連合文化会の姿など話していただきたいと思います。

さて、久留米連合文化会は現在八百名以上の会員を擁する文化団体で、全国的にも珍しい組織だと言われています。内容的にも文芸・美術・芸能・茶華道の四部門、二十三部には芸術関係のあらゆる部を網羅しており、特筆すべき団体ではないかと思います。

日本が太平洋戦争に敗れたあと、昭和二十一年に丸山豊氏、岸田勉氏が戦地から復員して来られて、人々が食うや食わずの時代に「文化」など飯の種にもならない時代に、焼土と化したこの久留米の人々の心に、文化の灯をともそうと犠牲的な精神で、熱意に燃えて「久留米文化の会」を発足させた。それが次第に大きくなって、昭和二十四年に「久留米連合文化会」に発展した。この経緯をお話しいただきたいのですが、まず荒巻さんから。

 
「久留米文化の会」の発足
荒巻 荒巻敏康 最初の頃を思い出すと、丸山豊氏、岸田勉氏から「久留米文化の会」の発議がなされ、それに二宮冬鳥氏、竹村覚氏、古川潤二氏、高橋暁夫氏、平野四郎氏、三原草雨氏などが加わり「文化の会」が発足しました。私は丸山、岸田両氏と面識があったので参加しました。当時のことは岸田勉氏が、「連文の歩み」の中で、また丸山豊氏が「緑の追想」の中で回想されているところです。

昭和二十二年に「文化の会」の第一回の総会があり、その後いろいろな行事が始まりました。二宮冬鳥氏の歌集「青襄集」、竹村覚氏の翻訳「イノック・アーデン」、丸山豊氏の詩集「孔雀の寺」の出版記念会がありました。その他、団伊能氏を囲む会、平野四郎会長の高良山の小鳥を聞く会もありました。俣野衛氏は詩人でしたが、事務の方もされていたので、記録など残っているだろうと思います。

梅林寺の見学などもありました。月例文化講座として丸山・岸田両氏の他に上田彰氏、豊田勝秋氏、草野駝王氏、高橋暁夫氏等が講師でした。藤本智董氏を囲む宗教講座や丸山豊氏、矢野朗氏の対談など面白い企画もありました。これはその後「耳で読む雑誌」となりましたが、その中で聴衆の中から題を求めて即興詩を作るというのがあって、ある女性が題として「まなこ」「眼」を出すと丸山豊氏が即興詩を作る、その間のつなぎに私がちょうど手もとにあったレコードから、シューベルトの「冬の旅」の「あふるる涙」を流しました。その間に丸山豊氏の詩ができました。こういうことがありまして昭和二十四年に「久留米連合文化会」ができたのです。

 
「久留米連合文化会」の発足
柿原 そうすると、はじめ「文化の会」では文学部、美術部、音楽部、映画演劇部、自然科学部、家庭文化部などがあり、これが発展解消して「久留米連合文化会」となったのですね。最初の頃の部はどんな状態だったのですか。
浦園 自分が漠然と聞いたのは、昭和十六年に福岡市で火野葦平氏が「文化の会」を作った。それに刺激を受けて久留米にもそういうものを作ろうというのが出発になった。そこではじめは「文学の会」であった。それが文学だけではなく「文化の会」となって輪が広がって来た。
柿原 現在、久留米連合文化会には二十三の部がある。それがどのようないきさつでできたのでしょうか。
浦園 それは昭和二十四年になって「文化の会」を「久留米連合文化会」というように「連合」の名を使うようになり、「連合」とはどういう意味なのかということになり、その意味に従って各分野が広がって来た。
荒巻 丸山豊氏を中心に久留米に詩人が集まったということはあります。
浦園 それはほとんど文学関係であった。絵画は文学と一緒ではなかった。
柿原 岸田勉氏の文章を読むと、はじめ「文化の会」ができ、それが昭和二十四年に「久留米連合文化会」となる。その過程で、それまで活動費を会費でまかなっていたが、次第に経済的に逼迫して来た。そこで経済的な面で公的機関と結びつかないと、活動できない。そこで市の図書館と結びついてやりはじめたと書いてあります。「市という公的機関の保護のもとに十年の歳月を経て、いよいよ生彩を加えている連文が…」としめくくりの文に書かれていますが、久留米市からの助成はその当時からあったのでしょうか。
花柳 資料には昭和二十五年から久留米市の助成対象団体となる、とあります。
 
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  *Illustration ; AOKI SHIGERU  Author : Sakamoto Toyonobu