EPISODE

Episode 02 久留米気質と画壇
  対談:丸山 豊 vs 内野 秀美 [since 1980]


丸山 豊
内野 秀美


 

軍都、商都


丸山 戦前は久留米を軍都といったり、商都と言っていましたね。
内野 そうですね。
丸山 ところがよく考えてみると、その間に隠然と文化的な伝統ができていたんですね。
内野 そうです。
丸山 あの時代は、本当の意味で何もかも軍都ではなく、何もかもが商都ではなかったと言うことですね。青木繁も坂本繁二郎も、この時代に育ったんですが、やはり表面的は軍都といわれた時代ですよね。
内野 ええ。
丸山 その凛然としたエネルギーが溜まってきたのは何故か?と考えてみますと、やはり明治維新があって、実業的に、また、軍閥の意味で、久留米にはいい先輩がいなかったと言うことが原因であって、非常に鬱積した下級武士や市民たちのかなりの数が、文化的な方面で突破口を開こうとしていた、と思っていいのではないかと思うのですが…。
内野 そういわざるを得ないでしょうね。
丸山 そうですね。非常に秀れた軍人が久留米にいたから軍都になったのじゃなくて、師団司令部がたまたま久留米に来たから表面的には軍都になった。
内野 ええ、そうですね。しかし、本質的には軍都ではなかった。という証拠には秀れた軍人は出ていない。久留米に師団があったというだけで…。
丸山 ここに来た師団長や連隊長の中に、東条英樹などの有名な軍人がいた、と言うだけであって、久留米出身には秀れた軍人はいない。薩摩や肥前に比べるとうんと少ない。
内野 そういう連中がよその藩におり、明治維新のバスに乗り遅れたからこそ、久留米では文学的な、芸術的な分野と、商業的な分野がぐーんと伸びていった、と言うことができるわけでしょう。で、商業の最も盛んな時代には、福岡の商業は久留米の金で回る、と言われた時代であっても、その商業人の中で短歌がものすごく流行していったのですね。
丸山 当然のね。当時の筑後の実業人というのは、かなり文化的な役割りを果たしていますね。例えば、青木繁を庇護してやったり、浄瑠璃を庇護したり…。

戦時中に私は、あいつは久留米生れだ、久留米の人間が歩いた後には草も生えん、と言われた。だから、そのころから反論していたんだけれども、一見そう見えるけれど。いいところと言えば、しなやか……竹のしなやかさ、と言うか、忍耐強くて、そして底光りするものを持っているんですね。
内野 そうです。
丸山 根に弾力のあるものを持っているんですよ。感情を非常に抑制するものだから…例えば、坂本先生のように抑制力が強いものだから、表現をオーバーにやる福岡や北九州の人から見れば、筑後人というのは心底裸を見せていない。だから、いつも打算しているように見えたんだろうけれども、私はそうは思いませんね。
内野 うん。
丸山 内野さんはそう言われたことはないですか?久留米人はいかん、と…。
内野 うーん、まぁ、言われたことはありますけれども、私は東京生活が永かったものですから…。九州人と一括してやられましたね。
丸山 そうですね。しかし、九州人といっても鹿児島と佐賀県人は違うし、福岡県でも北部と中部、南部では随分違いますしね。
内野 やはり違いますね。まぁ、筑後人というのは非常にのんびりしているところもあるんですよ。
丸山 ありますね。
内野 おそろしく!それでいて、ちゃんとしたけじめは締めくくってやっていく面が随分あるような気がしますよ。
丸山 ですから、律儀な面と大らかな面との二つの面を持っている、と言うふうに考えるんですね。
内野 そういうところから、青木繁と坂本繁二郎という両極端の画家が出たんでしょうね。

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