EPISODE

Episode 03 緑の追想 (11)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


「久留米文化の会」が活動を開始して、「連合文化会」へ脱皮するまでの3年間は、戦後の総合文化団体の新しいタイプを創りあげるための、燃えるような季節であった。日記をひもといてみると、毎日の一切を地域文化への奉仕という無償のことに賭けていたことがわかる。詩の仲間の俣野衛君も協力を誓ってくれて、会の事務に専念するようになった。

金文堂書店の川崎甲平支配人(詩人川崎洋君の厳父であり、洋君はその頃八女高校の生徒であった)との連絡もつき、東京の雑誌社から金文堂の出版部長に招かれてきた室園草生さんも援助してくれることになり、私の発案で「市民月例文化講座」を開講するに至った。

講座の第1回は昭和22年11月30日。場所は久留米商工会議所の二階。案内のビラでは、挨拶岡幸三郎市長と予定していたが、何かの要件で出席されず、川崎甲平さんの開会の挨拶をいと口として、講義は二宮冬鳥さんの「短歌雑感」、岸田勉君の「外国人の日本画観」、平野四郎さんの「季節の鳥」。私が閉会の言葉でしめくくりをしている。第2回は23年の2月21日。会場は前回とおなじ。岸田勉君の開会の言葉、久医大教授上田彰さんの教壇慢想「話し手と聞き手」、私の「現代日本詩の課題、詩はほろびるか」、豊田勝秋さんの「九州の美術工芸」、荒巻長篠さんの「レコードによる名曲鑑賞」。この日の会費は10円であった。第3回は3月27日、岸田勉君の美術講話、草野駝王さんの俳句の話、荒巻敏康君の解説によるレコード鑑賞。第4回は会場を変えて日吉町聖母園にて。岸田君の美術、高橋暁夫教授の音楽についての講話、福岡から招いた小説家矢野朗さんと私との公開対談「肉体文学」。第5回の講師は山内六郎さん、藤本智薫さん、平野四郎さん、岸田勉君、これが最後の講座になって、その後は、たとえば23年7月31日の「耳で読む雑誌」のように一ひねりした企画に移る。

8月3日付の「九州タイムズ」は「耳で読む雑誌」をこんな記事で読者につたえている。

東京あたりでは早くから催されている「耳で読む雑誌」がこのほど久留米文化の会主催で同市で試みられた。とかく紋切型になりやすい文化講演会、座談会と違って、プログラムの編成や司会の工夫では面白い総合講座風のフンイキで聴衆をひきつけることができるから、こんど久留米で試みられた「聴く雑誌」の場合を簡単に紹介しておこう。

まず「表紙」は美術研究家岸田勉氏が担当、この雑誌が若い女性の教養向きに編集されていることを説明してそれにふさわしい表紙絵の構図や色彩を解説した。表紙絵に夏姿の人物を想定すれ ばそこに夏のモードの暗示や批判を行うことができるし、原画と 原色印刷の技術を教えることもできるわけだ。この表紙で読者 (実は会場聴衆)の読者感覚をそそり「聴く雑誌」の内容を象徴しなければならないから機知にあふれたあいさつぶりが必要だ。たしかに「これから何々先生方に有益なる御講演を…」といった風のしかめつらしい開催の辞よりもスマートであった。

次の「グラビヤ」は山浦翠村氏の担当、ほんものの雑誌の口絵 と違って聴覚にうったえる写真なので苦しそうであった。

詩は丸山豊氏が自作詩「秋怨」を朗読、この詩にはカットがあ しらってある…といって朗読詩を鑑賞するに便利なように、まずカットの構図を前置きに説明しておいたのはたくみな方法といえよう。視覚的な近代詩の理解には、この程度の説明はぜひ必要である。原田種夫氏も自作小説を朗読、抑揚の乏しい朗読が惜しかったが、やはりある程度の「読む表情」が大切である。

音楽解説は九大美学教室助手荒巻敏康氏、レコード音楽を聴かせてこれに解説を施す「聴く雑誌」に目次のなかでは最も効果的な担当といえよう。

随筆は久留米医大助教授で歌人の二宮冬鳥氏、持ち前の風刺的口調でサンマータイムの不合理を説くところ中だるみの雑誌をピリッとさわやかのものにしたが、次の「ダンスのエチケット」のページを割き過ぎて会場がややくたびれた感じであった。
…中略…
なお暑さうだった会場を救うため「117臨時特集のページ」といった形で会場からの出題による即興詩、即興短歌を丸山、原田、二宮氏らが担当、課題は「眼(まなこ)」但し即興の詩歌を練る十数分間を間抜けしないように「レコード音楽鑑賞」をだぶらせておいた。

以上のような講座の他、二宮冬鳥歌集、丸山豊詩集、竹村覚訳書などのそれぞれの出版記念会、鏡山猛教授を講師とした「筑後の古代文化を語る会」、平野四郎さんを囲んでの「高良山に小鳥を聞く会」、武藤直治さんを講師に「久留米の史的逸話を語る座談会」、美術については中村孫次郎さんのお宅での書画鑑賞会、写真展、石原寿市君の遺作展、青木繁・古賀春江遺作展、活花講習会、音楽では小・中学生の第一回音楽コンクール、あけぼの復興音頭の審査、久留米地方では戦後最初の素人のど自慢会、俳句では桃青霊社献句会など、めまぐるしく多様な行事をおこしている。

ほとんど身銭を切って催したわけで、手あたり次第に、質の高い会合も大衆的な会合もごちゃごちゃに企てられたところが面白い。当時は行政機関に、今日のように文化や福祉を前面にすえる良識も余裕もなく、私たちは自立する市民意識の結集として「文化の会」の文化運動の展開に情熱を注いだ。

まだ日本のどこにもない綜合文化団体の最初のかたちを創りあげるという自負にみちて。

[on Magazine "RENBUN" vol.17, July 1980 ]




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