EPISODE

Episode 03 緑の追想 (6)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


市民が文化的意志をはたらかせて、音楽とか美術とか文学とかのワクをはずした会をもとうとするのは、今日ではありふれた試みであるが、戦前にはきわめてめずらしい会であった。もっとはっきりいえば、私のせまい知見では久留米地方ではじめての会であり、日本の各都市にもその例をもたなかった。もちろんその教科書がないわけではない。長谷川巳之吉の第一書房から「セルパン」という文化雑誌が刊行されていて、誌上でさかんにフランスのN・R・Fの運動を紹介していた。それは政治暴力におかされて危殆に瀕したフランス文化をまもるための幅ひろい文化運動であった。

国規模のあの大きな運動を真似て、久留米と言う地球の小さい総合文化運動が発足する。昭和9年1月、私は会の名をリベルテの会とさだめ、まず私が在学中であった九州医専の内部で、自由主義的な学生があつまり、これに志を同じうする町の青年たちが結びついて、会の輪郭をつくった。事務所に当てるべき適当な場所がなくて困っていたところ、そのころ紺屋町の角に茶房「ゴッホ」をひらいていた画家内野英実(内野秀美)さんの賛意を得て、ここを無料で事務所に借用することにした。内野さんと私との生活の友誼はこのときはじまったわけである。昭和10年の3月には、私は会の言葉としてつぎのように起草している。

…ともすれば良心は圧迫され民意は歪曲されている。現代の世 潮を、注視し考察し研究し、文化財をその敵から護るために、1935年1月4日私たち青年はリベルテの会と言うクラブを結びました。併し何分当地方は従来殆んど文化的な団体を有せず、僅かに地方エピゴーネンに依る独善主義的文化青年の集合、それから秀抜な先覚を多数東京へ送っているに拘らず一向に成長しない絵画人グループ、かっては日本最初の農民劇団を有していた光栄を失って企てる度に失敗を重ねる新劇協会、その他小さな音楽のグループを有するのみで、都市の第一要素である図書館すらないと言う商業主義の極端に浸潤した地方であり、それに近来は学校教育法が幾分時代の逆行の感があって私たちより幼少の青年には殆んど期待をかけることが出来ず、発会より今日に至る迄会の進行は大変困難な経過を通ってまいりました。

けれども兎に角主宰者無し細規無しと言う珍らしい構成のもとに、各自の良心による輪と進歩的主知的な精神による不文律とにより結ばれて、お互いの中には学校生徒も居ますことですし奇矯過激を排し出来るだけ平静な計画をたてて、会の使命を遂行しようとしているものです。勿論英雄主義の集会や慈善の団体ではありませんので会の名の為に行うとか会を所謂盛会にするとか会員中にヒットラア君をおくようなことは最も排撃している次第です。

本会の主旨として反ファシズムであることは最も穏健な意味に於いて公言することを許されると思います。徒らにヘゲモニーへ反抗してみると言うようなそんな偏狭安価なものではありません。以上の意をよく了解されて少しでも文化学術的に就いて関心をもたれる当地方の諸兄があるならば快よく私たちの輪の一つの鎖になっていただかれんことをお願いいたします。

1936年3月
人民良心と人格自由の名において
久留米リベルテの会

当時の仮名づかいのまま転記してみた。気負いが鼻につくずいぶんの悪文だが、あの社会情勢の中で韜晦を示した文章としてお目こぼしをねがいたい。

会の推移については、昭和21年になって、某新聞紙上に私が書いた一文がある。

昭和九年、前衛的な芸術および政治の諸団体はほとんど解散 のうきめにあい、わずかに実践的な分子のみ地下にひそんで当時のヘゲモニイに抵抗をつづけているとき、私たち医学生の一部は文化的な市民とむすんで、「人民の良心と人格の自由」なる名において、一切規約というものをもたぬ文化団体リベルテの会をひらいた。 画家も学生もシネマの弁士もそれから労働者も諸人も会社員も、おたがいの年齢職業などの相異をかなぐりすてて結合し、会員数はときに150名をこえ、詩歌展、絵画展、演劇研究会、出版、映画研究会、舞踊研究会などと文化のあらゆる方面にほしいままな仕事をした。このリベルテの会は発会より三年目に、官権の槌を蒙らぬ前にさっさと解散してしまった。

いま私の手もとに、リベルテの会の機関誌「仕事部屋」の第2号だけが残っている。これをひもときながら、会の行事のいくつかを想起してみたいと思う。

[on Magazine "RENBUN" vol.10, March 1978]




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