EPISODE

Episode 03 緑の追想 (9)

丸山 豊 [Publicity; Magazine"RENBUN" 1976-1980]


騒然とした世状に追いたてられて、私の医師生活は久留米から鎌倉へ、鎌倉から下関へ移り、ふたたび久留米に舞いもどって、召集令状をうけとった。昭和15年1月のことである。

その間、久留米の文化・芸術のうごきについての私の記憶は皆無に近い。ただ私が参加していた同人雑誌『文学会議』の仲間のなかから、火野葦平さんが芥川賞を受賞し、したがってその祝賀会が盛大に久留米でもよおされ、これには福岡や北九州の作家たちも参加したはずである。

私はすでに同人を辞退して、鎌倉における勤務医の激務の寸暇をひろって第三詩集を編集中で、帰省など及びもつかなかった。

小説の矢野朗さん、稲本富二郎さん、三木一雄さん、詩の俣野衛君、辻重行君、演劇の進仁さんなど出席しているはずである。

召集をうけた私は、久留米陸軍病院の営内生活ということで、見習士官室をあてがわれた。日曜の外出はゆるされたが、陸軍将校に準じた資格なので、民間の文化的会合に参加することなど不可能で、わずかに、福岡のプラジレイロにおける原田種夫さんの小説集出版記念会に、軍服のまま素知らぬ顔で出席したのがただ一つの例外であった。

このとき白秋ははじめて里帰りをして参席し、西日本の若い作家や詩人たちの花やいだ祝辞がつづいたが、それを空々しい思いで聞いて、白秋の素顔に接したことだけに満足をおぼえて帰営したものである。

昭和16年12月8日開戦となる。この日から、悲惨な終戦にいたるまで、文化運動についての私のノートはまったく白紙である。開戦の日は、私たちの輸送船団はパラオ島に錨を下していた。すなわち日本の陸軍として最初に赤道を南下した部隊である。私はすでに軍医少尉となり、防疫給水班長として数十名の部下をもっていた。これからは日本の消息とはなれるばかりで、その芸術とか文化の動静がつたわるはずはなかった。

従軍文士としての火野葦平さんの活躍や、郷土の西部軍司令部附に岸田勉君の文化活動などが、風のたよりにかすかに耳にとどくのがせい一ぱいだった。久留米地方のくわしい状況についてなら、三木一雄さんや俣野衛君たちが、かなり鮮明に記憶しているだろう。三木さんの矢野朗をえがいた小説は、戦時の久留米文学史のすぐれた資料になる。推察すれば、当時の久留米文化協会は、諸事統制の一つとして軍のすすめによって結成されたものであり、盡忠報国の志の表現法としてのカタにはまった動きにすぎず、真の生々発刺には欠けていただろう。

前記の矢野さん、三木さん、俣野君の他に、小鳥の平野医師、絵画の坂宗一さん、松田諦晶さん、東梅里さん、カメラの山浦翠村さん、俳句の田中彦影さん、三原草雨さん、安部春声さん、ピアノの薮文人さん等が名をつらねておられたことだと思う。

[on Magazine "RENBUN" vol.13, March 1979 ]




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