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青木繁墓前句碑除幕式 COLUMN

 わが国は 筑紫の国や 白日別 母います国 櫨多き国

明治44年(1911)3月25日、満開の桜を待たず、青木繁が亡くなって何年が過ぎたのだろうか。そして「海の幸」「自画像」をはじめとする作品群が石橋美術館から消えた二度目の喪失。今年もまた開かれた高良山の奥の兜山でのけしけし祭り。例年と同じように集い、かっぽ酒を酌み交わし、とっておきの文化を句碑に供え、大いなる挫折と栄光を享受した。

古ぼけたアスファルトの耳納スカイラインで歩を進め、彼の業に寄り添い、「小生が苦しみ抜きたる十数年の生涯も、技能も光輝もなく水の泡と消え候も、是不幸なる小生が宿世の為劫にてや候ふべき、 焼きのこりたる骨灰は序での節、高良山の奥のけしけし山の松樹の根に埋めて被下度」と青木繁が書き残した「骨肉の絆に腸を断つ遺書」に思いを馳せる。


看板に青木繁の句 墓前に立て除幕式

青木繁墓の看板を立てて欲しい、との要望が遺族からあり、連文で看板を作ることになった。

「青木繁、海の幸、旧市民会館の緞帳」、それ位の知識しか持ち合わせていなかったので、日吉町、順光寺に在るという青木繁の墓を訪ねた。さぞや立派な墓なのだろうと思っていたので、その質素さには少しばかり驚かされてしまった。山門を潜り墓地の北側にひっそりと佇んでいる墓。供えられた花もなく、にびいろの墓石は苔むして、彫り込まれた文字の影を追いかけて墓碑銘を読み取った。

その傍らに立つ看板である。青木が望郷の念をこめて詠んだ短歌「わが国は 筑紫の国や 白日別 母います国 櫨多き国」と、死の直前に姉妹に宛てた遺書と思われる手紙の一文「小生はかの山の寂しき頂より思いで多き筑紫平野を眺めて、この世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて、静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候」を連文書道部長北村久峰の書で記した。

そして去る2月27日墓前にて簡単な除幕式を執り行った。西日本新聞社久留米総局長、木村清吾会長、副会長他数名が参列し、酒を供え青木繁を偲んだ。(平成30年2月28日西日本新聞筑後版に写真と共に掲載)

そののち、かつての「泥の川」のそばの、こじんまりとした飲み屋で新聞記者某氏と酒を交わし、不安げに揺れるボトルネックギターの音に合わせて唄うブルースに聴き惚れた。

「神様にも見放されちゃったし、酒でも飲むしかねえ、他の奴らは上手い事やってるけど、この俺だけが落ちぶれちゃった、町の片隅で小さくなって、一人暮らしてる」

某氏の唄う「シカゴバウンド」を聞きながら、横向きざまに大きく眼を見開き、じろりと睨みつけている青木繁の自画像を思い、福田蘭童の「母います国」の中の歌詞、はじ多き国、を思い出さずにはいられなかった。

広報委員会



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