EPISODE

Episode 02 久留米気質と画壇
  対談:丸山 豊 vs 内野 秀美 [since 1980]


 

芸術と経済

丸山 それにね。坂本先生が郷里に帰ってくれたということ、豊田勝秋さんが久留米に戻って来たことは、本当に有難いことでした。
内野 芸術家なり文化人が、久留米に永住できるようになんとかしなくてはいけないですね。東京へ出ないと大成しないという考え方。…東京にいれば自分自身にかえって害を及ぼす、そういう気持、気分の方が今多いんではないですか?
丸山 文学ではですね。私の若い文学のグループは、ほとんど東京と福岡へ送り出しました。それは…東京でないと食えなかったから…。
内野 うん。
丸山 文学で食べていくという意味で…、久留米ではできませんでしたからね。まず東京へ行って…残った連中が福岡で…。久留米でも経済の面で文学の成り立つような町になるとね。文学をやっていく人が、文学をやっていくことで生活のできるような町にしてほしいと思いますね。
内野 やはり、そうならないと。…実際、田舎にいて画家が生活していけるということはほとんど考えられないですね。私等でも東京で個展をすると久留米より売れるんですね。ここが問題だと思うんですよね。だからといって、久留米の人たちは東京で絵を買い、東京の作品を買っている。やはり、東京で活躍している連中が、地元へ帰ってきて地元で活躍して、絵の本質そのものを判ってもらう必要がありますね。  まぁ、資本主義の世の中であり、中央集権的なものがどこにでもありますからね。芸術家にもね。…それをまず久留米が、アンチ東京の旗印を揚げなければいけない。
丸山 揚げるような基礎は大分できましたね。
内野 できつつありますね。まぁ…久留米というより九州というひとつの文化圏が早くでき上るといいですね。そのひとつの表われとして、来年の第二回現代九州彫刻展で、毛利君たちは案を練っていますがね。それを市長がうんと言うだろうか、どれだけ出せるだろうか、と思いましてね、九州文化協会が、今年一年間事業を休むんですよ。
丸山 どうして休むんですか?
内野 どういう訳ですかねぇ。鹿児島とか宮崎とかはやってくれと言っているらしいんですけれど、こちらは休もうと言うらしいんですね。折角あるものを…。だから文学の方も休むんじゃないですか?何も県の文化課がタッチしないでもできることなのに…。
丸山 そうそう!
内野 だから、続けようそれだけは続けたい、と木村茂さんは言っていましたけれど、青木さんに逢ったら、本当はもう解散することに決まっている、と言っていた。解散してはいけないと思いますがね。…ある方がいいに決まっていますが、…しかし、久留米が中心になって努力しなければならないときが来たようです。
丸山 九州文化協会、これは解散してはいけませんねぇ。折角盛り上がっている文化の灯ですから…。
内野 そうです。久留米では博物館構想、久留米大学芸術学部と、着々と前進していっているのですからね。  久留米の場合、これは芸術家にとってはしあわせですよ。石橋財団が確固として存在していますし、それに、石橋会長ご自身にご理解がある。石橋文化センターにしたって、久留米市民のために、と、ポンと寄付をされるし、私たち画家連中が欲しい、欲しいと思っていた近代的な美術館も新しく建て替わるし、石橋会長、石橋財団の存在が大きければ大きいだけに、私たち画家連中も応えねばなりませんね。  兎に角、久留米の芸術家は恵まれ過ぎていますよ。
丸山 そう。恵まれていますね。我々はこれに応えるよう努力しようではありませんか。  それでは、お互いに話題は尽きませんが、ここらで幕にいたしましょうか。
 
episode1
*昭和9年12月第23回来目会展・古賀春江遺作室にて。
後列向かって左から4人目、伊東静尾。前列向かって左より2人目、松田諦昌。3人目、古賀春江未亡人。4人目、坂本繁二郎。
 
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  久留米連合文化会50周年記念誌「しらひわけ 連文の過去・現在・未来」収録
*昭和五十五年三月刊「くるめ」(久留米企画出版)より転載。



SPECIAL THANKS
掲載している肖像イラストは、今回のウェブサイト開設にあたり坂本豊信氏により提供されたものです。

Author PROFILE : 坂本 豊信 [Sakamoto Toyonobu]

坂本 豊信 昭和33年(1958年)、久留米市諏訪野町に生まれる。昭和52年明善高校卒。佐賀大学を卒業後久留米市役所入所。
市政広報誌「市政くるめ」のイラストや市の事業ポスター、パンフレットなど数多くを手がける。
趣味の油彩の他、水彩やイラストなど幅広く制作するかたわら「カルキャッチくるめ通信:久留米市ふるさと文化創生市民協会刊」の表紙「ふるさとの肖像:1993年4月〜」を企画、久留米市の著名な人物像を描いた。