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百見聞は一体験に如かず

連文は次代の文化を創造する若者たちにワークショップを!
August 2019
column


COLUMN

元号が「令和」に決まり、スタンプラリーなみの、神社の御朱印集めがブームになりました。平成天皇が、自らの意志で退位され、在位中の戦跡慰霊、震災慰問への国民の感謝の気持ちもあって、明るいお祝い一色になったのも、新しい時代の到来を感じさせました。元号ゆかりの太宰府が脚光を浴び、出典となった万葉集もブームになっています。 

万葉集ならば、太宰府長官の大伴旅人の梅見の宴より、防人の歌が注目されるべきだという見方もできます。防人とは、壱岐対馬筑紫の辺境防備に、関東地方から強制的に駆り出された、まだ未成年を含む兵士たちです。元号の出典を国書にこだわった人たちには、防人やその母たち、「よみ人知らず」の人たちが、血の涙を流した歌など、これっぽっちも頭になかったでしょう。

ちなみに、映画「二百三高地」の壮絶な戦闘シーンで流されたさだまさしのテーマ曲も、「防人の歌」でした。「おしえてください この世に生きとし生けるものの すべての生命に限りがあるのなら 海は死にますか 山は死にますか・・」という歌詞は、万葉集の第16巻の漁師の「よみ人知らず」の「うみやしにする、やまやしにする」という挽歌が原典です。

万葉集は、四五〇〇首を収めた日本最古の歌集ですが、なによりの特徴は、柿本人麻呂や山上憶良などの有名歌人から、皇族、貴族から農民漁民、乞食も含めた名もなき民衆、東国地方の口承民謡まで収めた、そのとてつもない幅広さです。当然、短歌中心とはいえ、表現形態もさまざま、万葉仮名に統一された表記も斬新です。最終期の大伴家持らの編纂といわれていますが、一〇〇年超の作を二〇巻に収録する、国家的な文化イベントだったのです。

さて、久留米連文も、七〇周年記念目前です。これからの時代に、私たちの連文は、なにをめざしていくのでしょう。人間の精神が作り出すものが文化、精神を向上させるものが文化なら、連文の組織をあげて取り組むべき芸術文化活動とは、なんなのか、あらためて議論するチャンスかもしれません。

スポーツ界でも、オリンピックやパラリンピックの競技種目も、多様になっています。刻々と新しく変わり続けている中で、文化芸術のジャンルも表現法も、ますます多様になり、優劣を決めることなどできないし、まして説得力のない価値観や美意識にこだわって、排除するなど愚かなことです。

極めて私的なことですが、「創造は、想像だ。想像は、発見だ。発見は、感動だ。」ということを、肝に銘じて、オリジナルにこだわってきました。文化芸術は、基本的には孤独な活動ですから、自由と寛容さがエネルギー源です。

今後の組織としての連文の課題は、未来の久留米市民の文化創造の土壌づくりに、どう取り組むかということだと思います。自分たちの今やっている優れたものを、市民に見せ聞かせればいいのだという目線は、いささか傲慢です。観光が、「コト消費」つまり体験型に転換したように、たとえば、六角堂広場で、絵描き、女優、歌手、生け花、小説家ETC、になりたいという子どもたちの夢を語らせる、体験型のショップを開き、その道のプロが相談に応じるという企画はどうでしょう。チケットを売る必要もない、ギャラも必要ない。それだけの人材がいる組織が、連文であるはずです。スポーツ界で二世が活躍するのは、親がコーチする例が多いようです。子どもたちの文化のコーチになりませんか。

中村八大は、十二歳の時、中国の青島で、亡命していたユダヤ系ドイツ人ヘルス先生と、出会い、大胆に編曲した「荒城の月」の即興演奏を聴き、感涙を流し、生涯をかけて大作曲家になろうと心に誓いました。生きとし生けるもの、誰かと出会って体験してはじめて才能に目覚めます。まだ「よみ人知らず」の次代の若者たちと直に出会うことが、連文の未来を拓く鍵だと思います。ジュニア文化花ざかりの令和でありたいものです。



文芸部門副会長  石山 浩一郎